謂れでは同棲していた女性にも逃げられた、フランスでの居場所を失ったゴーギャンは、また1895年にタヒチに渡航した。
なにか彼のなかで魅力的な楽園があったのかもしれない。彼の旅の心を理解するのが彼の行動で読み取れるのかもしれない。
『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』1897-1898年(ボストン美術館)という記録が残っている。
これは彼の想いがタヒチ、当時の時代背景で通じる何かがあるのかもしれない。
そして、タヒチに戻っては来たものの、貧困、病苦、妻との文通も途絶えたゴーギャンは希望を失った。
死を決意。こうして1897年、貧困と絶望のなかで、遺書代わりに畢生の大作『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』を仕上げた。
しかし自殺は未遂に終わった。マルキーズ諸島に渡り、地域の政治論争に関わったりもしていた。1903年に死去。
ゴーギャンの人生とタヒチは深い深い繋がりがありました。
現在ではやはりタヒチらしいといいますか、教会での挙式がゴーギャンを偲ぶ場所の一つであり現在の挙式をしている様子がゴーギャンが見いていた楽園の光景かもしれません。
ゴーギャンが、訪れたタヒチと今現在とは違うということが考察できるのである。
タヒチを知る近代史としてはゴーギャンの言葉は重要なタヒチを知る"きっかけ"を与えてくれたのだ。
また、タヒチに魅了される者としての彼の言葉は歴史をしる重要な手がかりになるのかもしれない。
彼は一度タヒチを離れたのになぜまたタヒチに再度戻ったのか。
またパリに一度は帰ったが彼は職業であり本人の商売道具である絵が売れない。
『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』という彼の想いはもしかしたらタヒチに楽園を求めたが彼の人生のそのときの想いが反映されているのか。
画家などの職業はなんとも時には皮肉なこともあるのかもしれない。その皮肉というのは、人生での皮肉かもしれない。生涯で生存中の時には作品が評価されないのであるが、亡くなった後、後世の人間が作品を評価するということである。
アーティスト、音楽、芸術と呼ばれる分野では、このようなことが繰り返されているのは皆様のご存知のとおりである。
聖ジョン・バプティスト教会(マタイエア) ゴーギャンもゴーギャンに訪れた教会
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